増井健仁がビジネス、エンタメ、政治など様々な分野のキーパーソンを迎え、“いま起きていること”と“これからの社会”を多角的に読み解き、新しい視点とヒントを届ける「MEDIAMIXI with interfm」。2026年9月1日放送回は、作曲家・シンガーソングライター・音楽プロデューサーの織田哲郎氏が登場。
1958年、東京都生まれ。13歳のとき父の仕事の都合で渡英し、中学時代をロンドンで過ごす。15歳で帰国したのちは両親の出身地である高知県で暮らし、寮生活のなかでギターと出会った。1979年に北島健二らとのユニットWHYでデビューし、1983年にソロデビュー。長戸大幸とともにビーイングの創立にも関わっている。
TUBE「シーズン・イン・ザ・サン」、ZARD「負けないで」、WANDS「世界が終るまでは…」、B.B.クイーンズ「おどるポンポコリン」など、90年代のJ-POPを象徴するヒットを次々と手がけ、自身のシングル「いつまでも変わらぬ愛を」もミリオンセラーに。CDシングルの累計売上は4000万枚を超え、日本の歴代作曲家売上ランキングでは第3位に位置する。
「世の中の動きの半歩だけ先に行かなきゃダメなんですよ」。ヒットの条件をそう語る織田氏が、“売れるものが欲しい”という発注との向き合い方、本人もスタッフも反対した相川七瀬のデビュー曲に込めた逆張り、そして人を巻き込むための唯一のやり方までを語った放送のハイライトをお届けする。
売れる売れないの意識は?
前半で、作曲家、シンガーソングライター、音楽プロデューサーである織田哲郎の半生をたどった今回の放送。ここからは、これまでに数々のヒットを生んできた織田に、「売れる・売れない」をどう捉えているのかを増井が聞いた。
増井「プロジェクトに対して楽曲提供するし、アーティストにも楽曲提供してる中で織田さんが曲を書くときって、売れる売れないっていうものは意識されて作られているんですか?」
織田「それは発注次第ですよね。発注側が要するに売れるものが欲しいって言われてるようなときは、当然売れる……っていう言い方をすると、そこって悪っぽいニュアンスがなんかしら含まれちゃうけど、要するに最大公約数を考えていくっていうやり方になります。あるいは自分がプロデュースするものに関してだったら、元々こういう狭いフィールドの中だから、この狭いフィールドの中でのシェアはこれぐらい取れるといいなっていう意識で作るものもやっぱあるわけですよ。最初からより多くの大衆にっていうことじゃないものも、そりゃあるわけで。何て言うんだろうな、その楽曲が持つ、そのアーティストが持つポテンシャルは最大限に発揮させてあげたいっていう感じですかね」
増井「なるほどな。織田さんが以前“ポップスには一瞬で人を振り向かせる強さが必要だ”っていうお話をされてたって伺ったんですけど、その一瞬で人を振り向かせる強さって、どんなことが必要なんですか? 今で言うと」
織田「いろんなものがあると思うんですけど、やっぱり声って圧倒的に強いですよ。結局、メロディーに関して言えば、いわゆるフックになりやすいメロディー、なりにくいメロディーっていうのはあるんですよ。だけど、それよりもね、トータルの手触りとか食感みたいなもののほうが大事なんです。やっぱね、そういうものがなんか変だぞって、引っかかるっていうね。そういう一番最初の大きい要素は声ですよね」
増井「織田さんご自身の声も、特徴的ですし、それから織田さんが楽曲提供されてきた数多のミュージシャン、シンガー、アーティストの方々って声が特徴的じゃないですか。じゃあその掛け算がやっぱりこのヒット曲につながってる?」
織田「やっぱりこういう声だったらこういうメロいいよねっていう考え方っていうのはすごくあります」
相川七瀬との秘話
番組の後半では、織田が作詞・作曲とプロデュースを手がけた相川七瀬のデビュー曲『夢見る少女じゃいられない』の制作秘話へ。
増井「織田さんが作詞をやられてるっていうのは、数少ないと思うんですけど『夢見る少女じゃいられない』は織田さん詞書かれてますよね。これ今でいうとですよ、K-POPグループとかは世界観とかって言葉で話すんですけど、それからコンセプトっていうのがあって。当時のJ-POPって世界観とかコンセプトというよりは、メッセージ的なとかラブソング的なみたいな歌詞がすごく多かった。情景描写も多いし。なので、ラブソングの帝王とかっていう言い方はあるのかもしれないけれども、そのアーティストとしての立ち位置であるとか、キャラクターみたいなのを楽曲で世界観として表現するってのはあんまり少なかったんですよ、そういう意味ではね。だから、すごい別に暴言を吐きたいわけじゃないんですけど、この楽曲はこの人が歌ってなきゃいけない理由がちょっとなかった時もあるっていうか、違う人が歌ってても成立しちゃってた時もやっぱあるっていうか。だけどこの『夢見る少女じゃいられない』は相川さんがいないとできない」
織田「そう思います」
増井「コンセプチュアルな話になってくると思うんですけど、この相川さんを、ある種楽曲のタイトルとしては少女として扱って、だけど出てくるのが本物のロックシンガーなわけじゃないですか。このへんのコンセプトってスコンって出てきたんですか?」
織田「そうですね。コンセプトとしてのなんとなくなものは、もう最初のイメージ通りですね。ただ、この形はスコンとは出てきてないですよ。なかなかやっぱ難しかった。自分で詞書きたくなかったんですよ。私、詞を書くのは遅いんで。曲に比べて。もうとにかく詞は本人なり、誰かうまく息の合う作詞家がいてくれれば、それでもいいしって思って。『夢見る』もね、散々もう100じゃきかないレベルに発注しまくって、その中には有名な人、無名な人、いろいろいて、全部すいませんっていうことでボツにして。まあ本当に、ボツにして自分が書くってものすごい失礼なことなんで、やっぱりあれだったんですけど、どうしてもね、もうあったんですよ。こういう詞じゃなきゃいけないっていうのが。ただ『夢見る少女じゃいられない』は最初ものすごいみんな嫌がってましたけどね」
増井「それはスタッフ側がですか?」
織田「みんな。本人も、スタッフも」
増井「これって世に出て、僕たちがいわゆる相川七瀬さんというシンガーが世に出てきた。で、その時のキャッチコピーにほぼ聞こえるから、もうロックンロールのシンガーなんだっていうのがバチッと入ってきたんですけど、これ出す前の反対意見っていうのはどういう角度で反対なんですか?」
織田「まず1つには、この時代に女性のロックバンドだったり、ロックっぽい歌っていうのもなかったわけじゃないんだけど、みんな基本的にナチュラル志向で、で、メジャーのキーで夢は叶う、夢を見よう、そういうものがとても多かったんです。で、それが私の中のどっかひねくれた部分が嫌だったんです」
増井「なるほど。ロックだ」
織田「あとやっぱり流行りっていうのは、こっち側に極端に来ると、またこっちへ行くっていう、そういう繰り返しですから。そういう意味でいうと、今まさにそういうものが飽和してるっていう時だったんですね。だけど飽和してるなって私は感じて。だから違う方へ行くよって言っても、そればっかりな中に、実際レコードジャケットも相川のやつ、『夢見る』ってなんかこう薄暗い白黒のジャケットなんですけど、みんなポップなシングル、ポップで派手で可愛くてっていう中に、相川のあの白黒のジャケット。それはみんな「これでいいの?」って言うわけですよ」
(中略)
織田「曲調としても、ナチュラルな音にポップにパーンって弾けた曲の中で、なんだかこの薄暗い曲でいいの? ってみんな思うわけですよ。で『夢見る少女じゃいられない』って今だから、もうなじんで、別に普通に聴いてもらえるけど、そういうタイトル自体がイケてない感がすごくあったんですよ。世の中的に。例えば単純に、よくわかんないけど、英語の何かでバンバンってちょっとかっこよく聞こえるようなものと比べて『夢見る少女じゃいられない』ってダサくない? って。やっぱだから本人たちも言ってたんですよ」
増井「えー」
織田「本人たちも言ってるし、もうスタッフもみんな。そういう意味で言えば、あの時のやっぱエイベックスチームには本当に感謝してるんですけど。松浦(勝人)くんをはじめとして、みんなが、織田さんそう言ってるからこれでいいんじゃね? っていうところで足並み揃えてやってくれたんで。ただ内心みんな「ん?」って、はてなマークだったみたいです」
増井「まあでもね、世の中のマーケットの移り変わりって、飽和してるものの中で、実は勝負しようとする方が難しいじゃないですか。だからその逆張りでいうと、それがすごい成功した例だと思うんですけど。今お話を伺ってて思ったのは、ただあの1曲だけをやってたまたま当たったというよりは、結局ある種のこの勝てる球がある状態でスタートライン切らしてるから、多分『夢見る少女じゃいられない』があれぐらいの初速であそこまで行かなかったとしても、どっかではヒットしてますもんね、あれだけの強い曲があれば。スタッフ側もたぶん、デビュー曲がこれだけのコンセプチュアルなもの、これが時代に合うか合わないか、やってみなきゃわかんないけど、やっぱりこの織田さんがその後も強い曲を用意してくださってるから、まあこれでこけてもここで勝てるんだろうみたいな」
織田「実は『夢見る少女じゃいられない』ってバーンと売れてないんですよ」
増井「そうですか」
織田「全然売れてないんです。最初まず全く売れなくて。で、それからだんだんちょっとずつ売れだして。でも結局ベストテンには入ってないんですよ」
増井「そういう印象ないです。もうデビューから絶好調な印象です」
織田「違うんですよ。で、やっとね、高校生、女子高生が選ぶなんとかみたいなので、初めてちょっと注目されて“ちょっと来たぞ”と思って。でも全然ベストテンにはやっぱ入らずで終わって(中略)だんだん認知がすごくいい形で上がっていって、売れたのは『Red』っていうアルバムなんです」
増井「じゃあ本当にアーティスト売れなんですね、そういう意味では」
織田「ありがたい形ですね、それは本当に」
『夢見る少女じゃいられない』の発売は1995年11月8日。オリコン週間シングルランキングの最高位は12位で、織田の言葉どおり、デビュー曲がいきなり跳ねたわけではなかった。
逆境の中、人を巻き込めたのはなぜ?
大多数が首をかしげるなかで、織田はどうやって周囲を動かしたのか。
増井「でもそのアーティストが今でも色褪せることなく、だって日本のロックシンガー、女性で、30年経って歌えるってそうそう、ちょっといらっしゃらないじゃないですか。それでいうと、やっぱり地盤がすごい硬いものができてたから、コンセプトっていうんですかね」
織田「いやでもね、あれはやっぱり相川って相当特殊ですよ。変なやつだったんだな、実はっていう。よくあんな面白いやつと知り合ったもんだなと思いますよ」
増井「それもやっぱり持ってる持ってないの話になると、お互いお持ちなんだと思うんですけど。このプロジェクトを立ち上げるみたいなビジネスの話でいくと、織田さんが相川さんという素材を見つけて、こういうロックのシンガーがコンセプトでいけばいいんじゃないかなと思ったけど、大多数が本当か? って思ってる。だけど将来的には成功してる。長い目で見たらもう大成功なわけで。これ人の巻き込み方みたいなところでいうとですね、織田さん当時、社会とあんまり接したくないから自分に向き合ってってあったんですけど、これもう完全にリーダーとしてセンター立たなきゃいけないじゃないですか」
織田「そうでしたね」
増井「この時ってどうやって人を巻き込まれていかれたんですか?」
織田「私の場合はある意味シンプルですよ。自分がものを作るから。そういう意味でいうと、こういう趣旨なんだっていう話で納得させる以前に、作るもの自体で説得していくっていうことなんで。そういう意味ではリーダーでもあるけど、一番の現場でもあるわけだから。あとはやっぱり、結局相川自身が、誰に紹介してもみんなが相川のことを好きになっていくんですよ。そこですよね」
これからの展望
最後に増井は、織田にこれからの展望についても話を聞いた。
増井「できればですね、これから新しい織田さんの音楽も聞かせていただきたいと思ってるんですけど、まだこんなことやりたいなとか、こんな曲作りたいなみたいな、ご自身の中で新しいことっていうのはありますか?」
織田「そうですね、あるんですよ。あるんですけど、大体自分の中でやりたいものとしてあるものは、すっごい地味で、人が何ですかこれは? って言いそうなものばっかりですかね」
増井「さっきの『夢見る少女じゃいられない』もそうですけど、そのマーケットと違うところに置きにいってっていうのはあるから」
織田「だからそれってやっぱりある程度狙うとね、それができるんですけどね。本来はそういう世の中の動きの半歩だけ先に行かなきゃダメなんですよ。半歩先って逆に、ちょっと抑えなきゃっていうことがあるんです。その時の自分だけの気持ちで行っちゃうと、一歩まで行っちゃうと、それは人がついてきてくれない。時代にフィットしてないってことですよ。一歩行ったらもう」
増井「なるほど」
織田「それを半歩にとどめるっていうのは、冷静な判断力が必要なわけで。人をプロデュースするならそれでいきますけど、私、自分がやってるともう1歩半ぐらい行くと、ちょうど誰も見向きもしないあたりに行くんですね」
【ライブ情報】
織田哲郎 LIVE TOUR 2026〜UMAの耳に念仏〜
11月29日(日)大阪・BIGCAT
12月2日(水)名古屋・ダイアモンドホール
12月4日(金)東京・EX THEATER ROPPONGI
詳細は織田哲郎オフィシャルサイトにて。














