Netflix映画『もしもの愛』独占配信中

韓国の巨匠監督イ・チャンドンの世界がNetflixにやってきた。第83回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞した、8年ぶりの新作映画『もしもの愛』が独占配信されている。

主演は『シークレット・サンシャイン』(2007年)のチョン・ドヨン、『ペパーミント・キャンディー』(1999年)『オアシス』(2002年)のソル・ギョング。イ・チャンドン作品を代表する名優ふたりが、かつての労働争議によって深い傷を負った夫婦を演じる。

経済格差を隔てた二組の夫婦は、お互いをどこまで「愛する」ことができるのか? 複雑な感情と欲望が絡み合う人間ドラマに、監督自身の葛藤も刻み込まれた傑作を手がけたのは、従来の映画スタジオではなくNetflixだった。

解雇された男、映画を撮りたい女

勤めていた自動車メーカーの大量解雇に反対し、ストライキに参加した男ホソク(ソル・ギョング)は、妻のミオク(チョン・ドヨン)とともに、ある労働者の葬儀に参加する。そこで出会ったのが、ドキュメンタリー映画監督のイェジ(チョ・ヨジョン)。彼女は、解雇された労働者たちを取材する新作を企画していた。

葬儀場の駐車場で結婚指輪をなくしたミオクを手伝ったのは、イェジの夫サンウ(チョ・インソン)だった。事業家として財を成したサンウは、親切かつ穏やかな性格で、妻の活動も熱心に支援する。ミオクとイェジが意気投合したことで、暮らしぶりの異なる夫婦は少しずつ距離を縮めていった。

労働争議のなかで激しい弾圧を受けたホソクは、今も心身の傷に苦しんでいる。「カメラの前で過去を語れば、この現状を抜け出せるのではないか」。ミオクはそう期待し、イェジとサンウの所有する豪華な別荘で休暇を過ごすために夫を連れ出すが。

かつての労働争議以来、どこか人生の時間が止まっているようなホソクと、現在のグローバル資本主義のなかで利益を追求しながら生きるサンウ。夫を愛し、解雇された労働者の苦しみを肌身で知るミオクだが、豊かな暮らしを羨み、サンウの優しさと余裕にひかれてもいく。

かたや、イェジは善意と社会貢献の意識から創作活動をおこなうが、その行為は、取材対象の人々が持ちえない経済的特権に支えられている。彼女が映画を作る資金はどこから出ているのか。その創作は誰かの可能性を奪っていることにはならないのか。

隣人のものを求めてはならない――旧約聖書の戒律からはじまる本作では、なにかに惹かれること、なにかを欲することが幾度となく描かれる。経済格差や立場の違いを越えて、人は誰かを「愛する」ことができるのか。その「愛」とは、恋愛や性愛に限らず、友情や家族愛、そして隣人愛にほかならない。

原型となった短編映画『心臓の音』

イ・チャンドンは本作『もしもの愛』に先がけ、原型となる短編映画『心臓の音』を2022年に発表した。ひとりの少年が、うつ病を患う母親ミオクの身を案じ、学校を抜け出して自宅へと走る物語だ。

この短編では、主人公の父親ホソクは解雇に抗議するため、タワークレーンの上に籠城している設定。ミオクとホソクという役名、それぞれをチョン・ドヨンとソル・ギョング(声)が演じていること、大企業による人材解雇と労働争議という題材が共通点だ。

[/polly-sub] イ・チャンドン監督

このテーマは、イ・チャンドンが十数年前から構想していたものだった。

きっかけは、2009年に韓国で起きた双龍自動車の大量解雇とストライキ。経営危機のため2646人の削減計画を打ち出した経営陣に対し、従業員は工場を77日間占拠してストライキに及んだ。しかし、警察が特殊部隊による強制排除を決定したことで両者は激しく衝突。争議のあとも、当事者と家族の生活には深刻な影響が残ったとされる。

イ・チャンドンはこの出来事にもとづく映画を手がけたいと考えていたが、すでに労働者の闘いを記録したドキュメンタリー作品が存在する以上、その現実をフィクションとして描き直す意味を見出だせずにいたという。そんな中、WHO(世界保健機関)などの呼びかけを受け、「うつ」をテーマとした企画から生まれたのが『心臓の音』だった。

他者の人生が「自分の物語」になるまで

「これは私自身にとって、そして観客にとって、本当に意味がある物語なのか?」

2023年、筆者によるインタビューのなかで、イ・チャンドンはこのことを常に自問自答していると語った。

『もしもの愛』の物語から浮かびあがる、「国家による暴力と抑圧」というテーマは、彼のキャリアを貫く重要な主題のひとつだ。自らも1980年代に民主化のため学生デモに参加していたイ・チャンドンは、初期に執筆した小説でも民主化運動や警察の弾圧を繰り返し描いており、監督デビュー以前には、労働運動家の伝記映画『美しい青年チョン・テイル』(1995年)で共同脚本を手がけている。

『ペパーミント・キャンディー』でソル・ギョングが演じた主人公は、兵士として光州事件の鎮圧に参加し、のちに刑事となって反体制派の拷問にも手を染めた男。その27年後、イ・チャンドンは『もしもの愛』で、弾圧の傷跡に苦しむ労働者の役柄を同じ役者に託した。ここで時代を超え、同じ役者の肉体に、複数の題材とテーマが重なり合っている。

しかし、それでも大量解雇とストライキを描くだけでは、イ・チャンドンにとっては不十分だった。『もしもの愛』が製作されるに至ったのは、共同脚本家オ・ジョンミが、「労働者を撮影するドキュメンタリー監督を登場させる」というアイデアを提案したことが決め手だったという。

イ・チャンドンは本作に関するインタビューのなかで、映画監督を登場させることで、「解雇された労働者の苦しみが、『他者の苦しみ』ではなく私自身の物語にもなりうると思いました。作り手としての私は、どんな視線で、どんな態度で、どんな倫理をもって、彼らを見つめることができるのか」と語っている。

他者の苦しみを消費せず、創作の材料としてのみ扱うこともせず、その人生を語ることは可能か――。それはイ・チャンドンが生涯問うてきた、「今も簡単に答えの出ない問題」だという。創作には意味があると確信し、取材対象に親しみを感じながら、相手の言葉や表情を作品のために求めてもいるイェジの姿には、そんな監督本人の葛藤が重なって見えるだろう。

劇場映画を撮るため、Netflixへ

もうひとつ、イェジというドキュメンタリー作家を通してイ・チャンドンが見せるのは、「映画づくり」と「資本」との関係だ。心身ともに余裕をもってイェジが創作を続けられるのは、もちろん夫の経済力があるためだ。その一方、彼女は夫を頼らずに助成金を得ており、それゆえ周囲から疑問の目を向けられてもいる。

Netflixなどストリーミングサービスの台頭以来、韓国の映画産業は厳しい状況に置かれ、商業映画ではないイ・チャンドン作品は劇場公開作品としての出資を得られずにいた。

Netflixは企画の初期から関心を示していたが、彼が劇場向けの資金調達を試みるあいだ、じっと待ち続けていたという。それでも、最終的に『もしもの愛』を実現に導いたのはNetflixの出資だった。

記者会見で、イ・チャンドンは映画監督として「資本と結婚して生きているのかもしれない」と話した。Netflixは「いかなる干渉や要求もせず、監督としての独立性を認めてくれた」といい、劇場での先行公開も当初から約束されていたという。

資本を持つ者と持たざる者、そして芸術と資本の抜き差しならない関係を描いたこの映画を、苦境のさなかにある韓国映画界において、Netflixというグローバルの配信プラットフォームと組んで撮る。この枠組み自体が、『もしもの愛』という映画を使った一種の皮肉であり、もうひとつの物語のようではないか。

Netflixでたどるイ・チャンドンの世界

Netflixは本作の配信にあたり、イ・チャンドン作品のラインナップを拡充。『グリーンフィッシュ』(1997年)や『ペパーミント・キャンディー』、『オアシス』、『シークレット・サンシャイン』、『ポエトリー アグネスの詩』(2010年)、『バーニング 劇場版』(2018年)のほか、創作の軌跡をたどるドキュメンタリー『イ・チャンドン アイロニーの芸術』(2022年)も鑑賞できる。

さらに大きいのは、先述した短編映画『心臓の音』の配信も始まったことだろう。最新作を観る前後に、その原型となった短編に触れることができるほか、そのキャリアを振り返ったり、俯瞰して眺めたりすることができるのだ。

これは映画館の特集上映とは異なる、巨大なライブラリを構えるプラットフォームゆえの視聴体験であり、関心に応じて気軽に作品を行き来できる配信の強みだ。しかし、ひとたび再生をはじめれば、作品の強度に打ちのめされるのがイ・チャンドン作品である。できるだけ部屋を暗くして、なるべく大きな画面で、スマートフォンの電源は切って、じっくりと楽しんでほしい。