日本を代表する脚本家・宮藤官九郎の新作がNetflixに登場した。
「俺のこと、なんか言ってた?」は、役所広司を主演に迎えた「承認欲求」がテーマのヒューマンコメディ。宮藤によるNetflix作品は、大石静との共同脚本だった「離婚しようよ」(2023年)以来2度目だが、単独脚本の今回は、その個性と持ち味が炸裂した一作だ。
役所が演じるのは、人々から忘れ去られた大物俳優。再起をかけて奮闘する彼は、全力で怒り、泣き、笑い、叫ぶ宮藤作品らしいユーモアと、役所のパワフルな演技に笑わされていると、思いがけない優しさと深みに胸を打たれる、これぞ成熟した〈喜劇〉だ。
全8話、ほとんど止めることなく観てしまった。
大物俳優、現代の「リア王」に
主人公は、日本を代表する大物俳優・高瀬川玄(役所広司)。ロンドンのグローブ座で『リア王』の主演を務め、観客から喝采を浴びた高瀬川だったが、コロナ禍のあとに再び世界を襲ったパンデミックのために帰国が叶わず、2年ぶりに日本へ戻ってきた。
時代劇の大物スターを父に持ち、長年あまたの舞台に出演、ハムのCMには30年以上出演してきた。おまけに渡英直前には不倫スキャンダル――ところが、そんな高瀬川を今では誰も覚えていない。仕事仲間や家族からさえ、すっかり忘れ去られているのだ。
富と名声、キャリアや家族とのつながりをすべて失った高瀬川は、再び俳優として認められるため、エキストラからの再出発を余儀なくされる。2年後に実現するという、『リア王』の日本公演を目指して。

これまで宮藤官九郎は、落語を現代の若者たちの物語と掛け合わせた「タイガー&ドラゴン」(2005年)や、能楽の世界を舞台にした「俺の家の話」(2021年)など、日本の伝統芸能とオリジナルの人間ドラマを巧みに融合させてきた。
本作で物語のモチーフとなったのは、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』だ。老いた王が3人の娘に王国を譲ろうとしたことから、権力や家族、すべてを失い、自らの愚かさと向き合う物語である。

ロンドンでリア王を演じた高瀬川自身が、帰国後は「現代のリア王」になる。
かつての高瀬川は、日本を代表する俳優だったが、同時に傲慢で横暴な人物だった。周囲に威張り散らし、家族に不誠実な振る舞いを重ねてきたが、本人にはその自覚がない。しかし、今では何も思い通りにいかず、俳優としての実力さえ疑われる。
いやおうなく、高瀬川は己に向き合うことになる。自分の評価は、本当に才能があったからなのか、それとも高い地位に周囲が従っていただけなのか。

舞台『メタルマクベス』で、同じくシェイクスピアの『マクベス』を近未来の世界と1980年代のメタルバンドの物語へと大胆に脚色した宮藤は、本作で『リア王』を大物俳優の名声と承認欲求の物語として読み替えている。
『リア王』に3人の娘が登場するように、高瀬川の周囲には深い関わりを持つ3人の女性がいる。現在の妻マチ子(江口のりこ)、元妻で所属事務所社長のヨウコ(吉田羊)、そしてヨウコとの間に生まれた娘エマ(河合優実)だ。また、以前の付き人・大森(上川周作)は、リア王を厳しく批判する「道化」のように、容赦なく過去の振る舞いを突きつける。

「忘れられた人々」の群像劇
シェイクスピア劇さながら、この物語を圧倒的な表現力で引っ張るのが、高瀬川玄を演じる役所広司だ。
劇中で高瀬川は、『リア王』の主演から時代劇の斬られ役、配信ドラマの端役、そしてエキストラまでさまざまな役に挑む。さらに役所は、高瀬川の傲慢だったスター時代から、すべてを失いホームレスとなったあと、サウナで働きながら再起を目指す様子、さらに自身が傷つけた家族と対面する姿など、人生のあらゆる局面と、その喜怒哀楽をフルスイングで表現する。

宮藤と役所のタッグは、大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」(2019年)以来およそ7年ぶり。本人が日本を代表する俳優である役所が、見たこともないような姿で、そのエネルギーとユーモアを炸裂させるのが作品の見どころ。その演技を堪能するだけでも、全8話を見る価値があると言いたくなる作品だ。
その一方で、本作は失墜した高瀬川が出会う、以前の彼なら目もくれなかったような市井の人々の群像劇でもある。
高瀬川が世話になるサウナでは、韓国語混じりで話す従業員のチヂミ(坂井真紀)や、スランプに陥っている劇作家の岡本哲(賀来賢人)が働いている。撮影現場にいるのは、過酷な労働に追われている助監督の川島一機(松山ケンイチ)や、カリスマエキストラの刈谷(山本博)。岡本の劇団には、問題児の看板俳優・村井タケル(磯村勇斗)たちがいる。

チヂミはオーナーの愛人で、一緒に店を構えることを夢見ていたが、今ではオーナーに見捨てられ、ひとりで働いている。劇団員の岡本と村井は、ともに若いころ注目を浴びたが、今ではまともに公演も打てていない。助監督の川島は、映画監督志望だったが、日々の仕事のため夢を追うことも忘れかけていた。
彼らもまた、高瀬川と同じく「忘れられた」人々だったり、社会や時代のなかで、他者や自分自身によって「置き去りにされた」人々だったりする。高瀬川のライバルだった人気俳優の壬生大也(濵田雅功)、京都の時代劇スターである湯葉俊作(尾美としのり)も、忘れられることや、大切なものを失うことにどこかおびえているのだ。

そして何よりも、元妻のヨウコと娘のエマ、不倫スキャンダルのなかで見捨てた妻のマチ子と、幼い息子のツトム(永瀬矢紘)という家族は、ほかでもなく高瀬川が置き去りにした、言いかえれば「忘れようとした」人々なのだ。
ドラマには大勢の人物が登場するが、毎回異なるキャラクターに焦点を当てる構成ではない。物語はあくまでも高瀬川を中心として、そこにさまざまな人物が出入りする形で展開し、ある回では重要な人物が、次の回にはほとんど姿を見せないこともある。

いくつもの断片的な人生が折り重なることで、ひとつの大きな世界が生まれるのは、ある意味ではシェイクスピア劇らしいとも言える。しかし、宮藤作品の系譜としては、山本周五郎の小説をドラマ化した「季節のない街」(2023年)も近いだろう。
同作は災害で住む場所を失った人々が暮らす仮設住宅が舞台の群像劇で、各話ごとに主役は交代するものの、全員の物語がきれいにまとまるわけではないところが特徴。当時、災害によって経済力や社会的地位の違いがなくなった人々のつながりを描くことに関心があったという宮藤は、今回もパンデミック後の世界で、富と地位を失った主人公と周囲の人々を描いている。

宮藤官九郎が描く「映像」と「演劇」の世界
かつては凝った構成や伏線回収のイメージが強かった宮藤作品だが、本作は時系列こそ行き来するものの、きわめてオーソドックスな語り口の群像劇。設定こそ突飛だが、核心にあるのは『リア王』をモチーフとした大物俳優の転落劇で、再び立ち上がった彼がさまざまな人々と関わりながら、己を見つめ直していく物語だ。
物語の舞台に選ばれた「映像」と「演劇」の世界は、宮藤自身が長年身を置いてきた場所である。若くして劇団「大人計画」に参加した宮藤は、放送作家としてコントを書き、テレビドラマの脚本を手がけ、映画監督やミュージシャンとしても活動。俳優としても高い評価を得ている。

自らがマルチな活躍を続けるなかで、長年積み重ねてきた経験と関心、そして問題意識が、このドラマにはダイレクトに表れているようだ。
宮藤自身、創作において大きなモチベーションになるという「俳優」たち。たくさんの現場で出会ってきたスタッフたちや、原点である小劇場の演劇人――彼らへの温かく、ときに厳しい視線や、現在の映画やドラマに向けられた思い、創作や労働に対する問題提起、そして失われてゆく文化への愛情が、この物語の随所にこめられている。

夢と才能にあふれた、ただ輝かしい場所ではない。ここには才能があっても報われない人々がおり、優秀な問題児が周囲を振り回し、容赦なく理不尽なことが起こり、そこでは人が傷つき、涙を流すこともある。
けれどもそうした世界や、そのなかで懸命に生きる人間の優しさや悲しさを、たっぷりの笑いで包みながら描くことは、作家・宮藤官九郎の長年変わらない作風だ。本作はそのシンプルさゆえに、「人間賛歌」としての本質をまっすぐに差し出す仕上がりとなっている。

そしてさらに言えば、このドラマはまぎれもない「俳優賛歌」なのだ。あらゆる存在を演じる役者たちの、そして彼らの中心で誰よりも身体を張って走り回る名優・役所広司の姿を通して、その仕事の尊さを語ってもいる。なぜ私たちは、彼らの姿に笑い、涙を流し、心を震わせるのかと。
「誰も知らない大物俳優」の転落劇、忘れられた人々の群像模様、映像・演劇業界へのメッセージ、そして俳優という存在への大いなる賛歌――。仕掛けに満ちた最終話では、それらのピースがぴたりとはまる。なるほどこの重層性こそが宮藤官九郎だと、ぜひ膝を打ってほしい。














