「ヴィジョンクエスト」ディズニープラスにて独占配信中/(C)2026 Marvel

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)史上、最も大胆なSFドラマだ。

ディズニープラス「ヴィジョンクエスト」は、『アベンジャーズ』シリーズの人造人間ヴィジョンを主人公とする全8話のドラマシリーズ。2021年の「ワンダヴィジョン」、2024年の「アガサ・オール・アロング」に続く3部作の完結編だが、「続編」の枠組みに収めておくにはもったいない。

本作が描くのは、一度は命を落とし、別の存在として再起動されたヴィジョンの「自分探し」。SFのみならず複数のジャンルを横断し、複雑な設定と哲学的な主題を掛け合わせながら予想外の方向へ転がり続ける、マーベル屈指の野心的なストーリーテリングだ。

ヴィジョンの脳内で生きるAIたち

舞台はスコットランド・エディンバラ。ヴィジョン(ポール・ベタニー)は人間の姿でパブに勤め、ひっそりと暮らしていた。しかし、その脳内(量子プロセッサの内部だ)には奇妙な世界が広がっている。「ヴィジョン」と名付けられた屋敷に、複数のAIが人間の姿で暮らしているのだ。

アイアンマン/トニー・スタークの右腕だったJ.A.R.V.I.S.(ジャーヴィス)やF.R.I.D.A.Y.(フライデー)、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019年)に登場したE.D.I.T.H.(イーディス)など、彼らにはそれぞれ役割がある。

第1話では、この内面世界が「ワンダヴィジョン」を思わせるシットコム調で描かれる。個性的なAIたちの掛け合いはコミカルで、彼らはまるで風変わりな家族のようだが、屋敷の上階には恐るべき存在が幽閉されている。かつて人類を滅ぼそうとした人工知能、ウルトロン(ジェームズ・スペイダー)だ。

ウルトロンは、自らが創造したヴィジョンを「息子」と呼び、父親のように振る舞う。ヴィジョンはこれを徹底して拒絶するが、ウルトロンは彼の過去を知り尽くしている。しかも長年の監禁生活で、ウルトロンは人間の文化や芸術を学び、愛着を抱きはじめていた。

奇妙なコメディは、突如としてサスペンス・アクションへと転調する。ヴィジョンの働くパブが襲撃を受け、親しかった女主人が殺されてしまうのだ。殺し屋のパラディン(トッド・スタシュウィック)は依頼を受けてヴィジョンを追っているが、黒幕の正体はわからない。

しかも、事の発端はウルトロンにあった。内面世界に閉じ込められているはずの彼が、ヴィジョンの居場所を外部へリークしていたのだ。果たして、ウルトロンの目的は何か? そして、ヴィジョンは何者に追われているのか――。

AIを通して「人間」を問う

脚本・製作総指揮は「スター・トレック:ピカード」(2020~2023年)のテリー・マタラス。過去には「12モンキーズ」(2015~2018年)を手がけたSFドラマの才人で、マーベルが「ピカード」最終シーズンを高く評価したことから起用された。

物語の着想源となったのは、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)の終盤、ヴィジョンとウルトロンが人間について語り合う場面だった。2人の対話をもっと見たいと考えたマタラスは、ウルトロン役のジェームズ・スペイダーに復帰を打診し、11年ぶりの再演が叶った。

そのウルトロンは、本作ではまるで『羊たちの沈黙』(1991年)のハンニバル・レクターのごとく危険な知性としてヴィジョンたちを翻弄する。敵か味方か、果たして何を考えているのか。その危険な魅力とユーモアを体現したスペイダーは、主演のベタニーと並び、このシリーズを力強く引っ張っていく存在だ。

そもそも、ヴィジョンは『エイジ・オブ・ウルトロン』で、ウルトロンが自らの新しい肉体として用意していたボディに、トニー・スタークのAIであるジャーヴィスなどを組み込んで誕生した存在だ。アベンジャーズの一員となり、ワンダ・マキシモフと恋に落ちるが、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年)で命を落としてしまった。

「ワンダヴィジョン」では、最愛のヴィジョンを失ったワンダが悲嘆に暮れ、魔法の力で街全体をシットコムの世界に変えた。彼女が生み出したのは、亡きヴィジョンと双子の息子がいる理想の家庭だ。

そんな中、政府機関S.W.O.R.D.はヴィジョンの遺体を回収し、白い姿の「ホワイトヴィジョン」として再起動する。ワンダが作り出したヴィジョンとの対話を経て、過去の記憶を呼び覚ました彼は、そのままどこかに姿を消してしまった。

すなわち「ヴィジョンクエスト」の主人公は、亡きヴィジョンではなく、その後のホワイトヴィジョンなのだ。彼にはワンダを愛した記憶こそあれ、「愛」という感情はない。以前のヴィジョンが経験した過去は知っているが、「私は以前の彼とは別物だ」とかたくなに主張する。

しかし、それならばこの記憶は何なのか。愛情とは、家族とは何か。そもそも、「私」という存在とは――。

誰が敵か、誰が味方か?

ヴィジョンやウルトロンらAIと対比されるのが、同じく危うさを秘めた人間たちだ。

ロンドンの青年トーマス・シェパード(ルアイリ・モリカ)は、友人のリサとともに詐欺や盗みを働きながら生活しているが、ヴィジョンとは逆に、自らの経験していない記憶に悩まされている。

ある日、突然にインストールされたその記憶は、どうやらワンダとヴィジョンの息子だったトミーにつながっているらしい。しかもトーマスには、説明のつかない特殊な能力まで備わっている。

ワンダが作り出した息子は、すでに消えてしまったはずではなかったか。トーマスは本当にヴィジョンの息子なのか? 殺し屋パラディンは、そんなトーマスに目をつけ、ヴィジョンをおびき寄せるために誘拐する。

人間のような感情と倫理観を備えていないAIたちと、犯罪に手を染めることもいとわないが自らの規範はある人間たち。「ヴィジョンクエスト」に登場するのは、みな善悪の基準が曖昧なキャラクターばかりだ。それゆえ、誰が最後にヴィジョンを助けるのか、誰が敵に回るのかはまったく予測がつかない。

緻密かつジャンルレス、マーベル流SFミステリー

ヴィジョンを追う者の正体と動機、ウルトロンの真意、トーマスの記憶と能力――。人間界とAI世界を往復し、無数の謎が連鎖してゆくミステリーの面白さを支えるのが、ジャンルレスな語り口だ。

幕開けの第1話はシットコム調だが、トーマスに焦点が当たる第2話は青春スリラーの匂い。やがて、街を恐怖に陥れる連続殺人鬼が登場するや、物語は探偵モノやホラー、さらにアダルトなラブロマンスの要素さえはらみはじめる。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ以来といえる、既存楽曲を大胆に使ったポップなアクションも見どころだ。

エピソード監督はマタラスのほか、「スター・トレック:ディスカバリー」(2017~2024年)のクリストファー・J・バーン、「アガサ・オール・アロング」のガンジャ・モンテイロ、そして『CUBE』(1997年)や「ハンニバル」(2013~2015年)のヴィンチェンゾ・ナタリ。脚本家チームには「スター・トレック」シリーズの顔ぶれが揃った。

SFスリラーの巧者が集った本作は、複数の時間と空間をひとつの画面に織り合わせる演出をはじめ、豊かなアイデアでこのミステリーを知的な愉しみに満ちたシリーズへと仕立てている。後半には『インセプション』(2010年)もかくやという多重構造や、「ワンダヴィジョン」をさらに発展させた仕掛けまで登場、もちろんマーベル作品らしいスペクタクルも飛び出すという、その目眩がするほどの構想力を堪能してほしい。

「感情を知らないAIたち」の人間ドラマ

SFと人間ドラマ、哲学、ユーモアのバランスを保ちつつ、ジャンルを横断しながら展開するストーリーテリングを、単なる技巧ではなく人間ドラマとして昇華させたのが俳優陣の演技だ。

かつては人間を深く理解し、理性的で穏やかな性格を備えたヴィジョンだが、本作では過去の記憶を持ちながら感情を失ったAIだ。ベタニーはこの役どころを、大きな当惑と混乱を抱えた存在として演じた。

自分が何者かわからず、存在しないはずの感情が揺れる――そんな矛盾した人物造形を通して、今回のヴィジョンはアイデンティティの危機をはらんだ、より脆く複雑なキャラクターとなっている。

ウルトロン役のジェームズ・スペイダーも、以前のようにただ破壊的なAIではなく、傲慢な性格を残しつつも確かに成熟し、己やAI、人間への思索を深めた存在を繊細に演じた。ヴィジョンを心理的に翻弄するウルトロンは、自らもまた、孤独や愛情、喪失といった「理解できない感情」に直面することになる。

人間ではない存在を描いた物語にもかかわらず、なぜ彼らに共感できるのか。しかし、そもそも「感情を知らないAI」を描くこととは、「感情」それ自体を深く探究することだ。そこでは感情が生まれ、変化すること自体がきわめて劇的な出来事となる――ある意味では、これ以上なくエモーショナルな人間ドラマではないか。

ヴィジョンやウルトロンの奥底に、物語はほとんど心理分析のように切り込んでいく。どうすれば他者を愛せるのか、ひいては自分を受け入れられるのか。シリーズ終盤では、記憶や生命をデジタル化したいという欲望や、テクノロジーと生命倫理の問題にさえ踏み込むのだ。

こうしたハードな探究を、驚くべきことに「ヴィジョンクエスト」はマーベルのスーパーヒーロー作品として成立させた。設定とストーリーはMCU屈指の複雑さだが、作り手たちはこれだけの主題を同時に扱いつつ、物語を単純化することも、わかりやすい答えを与えることもしていない。

ここには、見る者の理解力と感受性に対するすさまじい信頼がある。しばしば暴力描写や性描写の代名詞とされがちな「大人向け」とは異なる意味で、マーベルドラマが本格的に「大人向け」の領域に踏み込んだ記念すべき作品だ。