ロウアー・マンハッタン、ワールド・トレード・センターから数ブロック。

かつてニューヨーカーに親しまれた老舗ディスカウント百貨店センチュリー21(Century 21)。その一角にある21 Dey Streetの空間は、いまアートとテクノロジーを組み合わせた没入型ミュージアム「マーサーラボ(Mercer Labs, Museum of Art and Technology)」として注目を集めている。

2024年2月に一般公開されたマーサーラボは、約36,000平方フィート(約3,300㎡)の空間に15の没入型ルームを備える施設だ。16K解像度のプロジェクション、360度映像、インタラクティブなサウンド・インスタレーション、立体音響などを組み合わせ、いわゆる「観る美術館」とは異なる多感覚体験を提供している。

アップル、メタ、グーグルが五番街やチェルシーで展開する「リテール × ブランド体験」とは別の文脈で、ニューヨークは「アート × テクノロジー」の旗艦も生み出している。

今回は、特別な企画展が行われていない通常開催の時期に、常設展示を中心に体験してきた。

ロイ・ナハムとマイケル・ケイレが描く実験空間

マーサーラボを共同創設したのは、アーティストのロイ・ナハム(Roy Nachum)と、不動産デベロッパーのマイケル・ケイレ(Michael Cayre)である。

ナハムはイスラエル出身の現代美術家で、リアーナのアルバム「ANTI」のカバーアートを手がけたことでも知られる。同作のジャケットには、ナハムのシグネチャーとも言える「金の王冠を被った子ども(クラウン・キッド)」のモチーフと、点字で記された詩が用いられていた。この点字のモチーフは、マーサーラボの思想とも深くつながっている。

ナハムは、視力を失った祖母や車椅子を使っていた祖父の存在が、自身のアクセシビリティへの意識に影響していると語っている。館内に点字が配されているのも、単なるバリアフリー対応ではなく、鑑賞体験を「見る」だけでなく「触る・聴く・感じる」ものへ拡張しようとする態度の表れだ。

実際、ナハム自身がこの姿勢を象徴するエピソードを語っている。ニューヨークに移り住んだばかりの頃、彼は美術学校に入学するにあたって1週間、目隠しをして過ごしたという。新しい人生への一種のオマージュであり、視覚以外の感覚で世界を捉え直す試みでもあった。マーサーラボの暗い没入空間は、その延長線上にある。

「The Map」から「Volumetric」へ

入場すると、まず靴カバーを着けて最初の空間へ進む。ここでは宇宙の岩のようなデジタルオブジェクトが浮遊する、比較的静かな導入部だ。その先に現れるのが、館内最大の見せ場のひとつ「ザ・マップ(The Map)」である。

5,000平方フィート(約465㎡)、天井高40フィート(約12m)。四方の壁面すべてに大型デジタルディスプレイが回り込み、複数のレーザープロジェクターと立体音響によって、部屋全体が映像と音に包まれる。

常設展示「マエストロズ & ザ・マシーンズ」期のこの部屋では、印象派、とりわけクロード・モネの筆致が光と動きへ変換され、絵画が「歩いて入れる光の場」として再構成される。四隅にブランコが吊られ、中央には腰かけられる場所もあり、来場者は人の流れに追われず、好きなだけ映像と向き合える設計になっている。

「ザ・マップ」の隣には、ナハムの油彩を従来型のギャラリー形式で展示する一室がある。ここで提示されるのが「ザ・ライン」と呼ばれる作品群だ。ナハムは視覚障害のある5人をモデルに肖像を描き、さらにモデル自身が絵に加筆していく。

写真と見まがう精緻な肖像と、本人たちが制作プロセスを語る映像が組み合わされ、ベンチや椅子にも点字のテーマが連続する。テクノロジー一辺倒ではない、絵画という手仕事の層が、ここで意図的に差し込まれている。

順路を進むと、鏡張りの回廊「ブリージング」を抜けて、館内で最も知られる空間に到達する。施設側が「ドラゴン」とも呼ぶ「Volumetric」だ。

507,000個のLEDニューロン(マイクロチップ)を同期させた、この種のインスタレーションとしては最大規模のもので、ボクセル(立体ピクセル)が光の粒子となって明滅し、ホログラフィックな図像やパターンを描き出す。床も含めて周囲が鏡で囲まれているため、空間の境界が消失し、無限に広がる光の海の中にいるような感覚に陥る。ナハムはこの空間を「目を閉じたときに自分に見えている景色」と表現している。

このほか、19世紀の郵便輸送に使われた気送管(pneumatic tube)を転用し、来場者が入力した「願い」を光のカプセルとして管の中に走らせる「ニューマティック・トランスミッション」、砂の上でロボットアームが絵を描いては波のように消していく「アーキタイプ(The Beach)」など、過去と現在のテクノロジーを交差させる部屋が続く。

子ども向けには、デジタルスクリーンのスライダーが付いたボールプールや大型チェス盤を備えたインタラクティブな空間も用意され、暗くムーディーな部屋の連続に緩急をつけている。

館内構成は、絵画ギャラリーの常識から大きく離れている。建築論の文脈でも、白い壁に作品を掛ける「ホワイトキューブ」型の美術館に対するアンチテーゼとして、暗い没入空間そのものを建築的マニフェストに据えた施設だと評されている。旧センチュリー21の躯体を再利用しながら、空間を構成する素材はガラスやコンクリートではなく、光、音、ピクセル、身体感覚、そして感情である。

「Mercer Studio」と外部コラボの蓄積

マーサーラボの特徴は、常設展示の完成度だけにあるのではない。施設の中核には「Mercer Studio」と呼ばれるオンサイトのラボがあり、アーティスト、ミュージシャン、クリエイターとの継続的な共同制作が行われている。

実際、同館はこれまでにも外部とのコラボレーションを重ねてきた。トライベッカ・フェスティバルの2024年イマーシブ・プログラム(好評を受け7月29日まで延長)、グラミー賞受賞アーティスト、デュア・リパのアルバム「Radical Optimism」リリース企画、レーベルの88rising、ブロードウェイ「Hell’s Kitchen」を率いる15回グラミー賞受賞アーティスト、アリシア・キーズなどが名を連ねる。さらに2025年10月9日から11月30日までは、東映アニメーションとの「ONE PIECE x MERCER LABS」没入型展示が開催された。

音楽、映画祭、舞台、アニメと、ジャンルを越境してIPや作品の世界観を没入空間へ翻訳する場として、マーサーラボは独自のポジションを築きつつある。

つまり、常設展示を観に行く時期であっても、この施設が「世界観の編集装置」として設計されていることは随所から読み取れる。展示は固定されたものではなく、Mercer Studioを介して更新され続ける前提で運用されている。

日本のクリエイティブ業界が学べること

第一に、作品やIPは「グッズ」や「映像作品」だけではなく、「空間」として翻訳される時代に入っているということだ。

部屋を丸ごと一つの世界観に変えるという発想は、テーマパーク的な常設施設の発想と、現代美術のインスタレーションの発想の中間にある。日本国内でも没入型エンタテインメントの試みは進んでいるが、「ニューヨーク・ロウアー・マンハッタンの現代美術館」という文脈に乗ることで、作品には”現代アートとして読解される機会”が追加される。

第二に、北斎が「マエストロズ & ザ・マシーンズ」に並ぶこの場所では、日本の古典と西欧の古典が等価に扱われているということだ。これは輸出文脈とは異なる、現代美術のグローバルな対話としての文化活用である。

第三に、Mercer Studioのような「オンサイトの共同制作ラボ」を施設内に持ち、外部のIPやアーティストと継続的に企画を生み出す構造そのものが、日本の美術館・ギャラリー運営にとって参考になる。展示を固定資産として持つのではなく、更新され続けるプラットフォームとして設計する発想だ。

マーサーラボは、五番街のテック旗艦店群が示した「物理リテール=ブランド体験装置」という変化の、もう一つの極にある。販売の場ではなく、感情と物語の場としての旗艦店。それを実現する手段が、16Kプロジェクションであり、立体音響であり、50万個を超えるLEDであり、ナハムの油彩である。

2026年現在、ニューヨークで「テクノロジーが文化とどう融合しうるか」を最短距離で観察したいなら、五番街とチェルシーに加えて、Dey Streetも巡回コースに入れたい。マーサーラボは、アート、テクノロジー、都市の記憶が交差する場所としとして、没入型エンタテインメントの現在地を静かに示している。</p>