“ディズニー的”な想像力は、ディズニー以外のブランドやプラットフォームでいかに再現できるのか。あるいは、なぜ再現できないのか?
5月1日に配信がスタートしたNetflix映画『プークーと魔法の植物』は、ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』(2010年)のネイサン・グレノ監督による16年ぶりの長編監督作。さらに、『トイ・ストーリー』(1995年)などの生みの親であり、ピクサーのチーフ・クリエイティブ・オフィサー(CCO)を務めていたジョン・ラセターがプロデューサーを担った。
製作は、ワーナー・ブラザース・ディスカバリーの買収でも話題のスカイダンス社が擁するスカイダンス・アニメーション(Skydance Animation)。2019年からラセターがクリエイティブの指揮を執り、2023年からはNetflixと複数年契約を結んでいる。
本作は小さな森の動物プークーの若者オリーが、獰猛な鳥類ジャヴァンの女性アイヴィーと、ひょんなことから身体が入れ替わってしまう物語。日本でもなじみ深い「入れ替わりモノ」だが、ここには同時代の空気と、ストリーミング産業の現在が、思いがけない形で詰まっている。

元・ディズニーの作り手による「入れ替わりモノ」
谷に住む動物たちは、かつてはツォーと呼ばれる巨大な動物のおかげで仲良く暮らしていた。ツォーの魔法は、動物たちの姿を変え、互いの言葉を通じ合わせることができたのだ。ところが、一頭のオオカミが魔法によって火の能力を手に入れ、ファイヤーウルフとなって谷を脅かしたことから、動物たちは散り散りになり、ツォーも去ってしまった。
島に暮らす小さな種族プークーは、脅威から身を守るため、自分たちだけを信じ合いながら生きてきた。合い言葉は「じっと隠れて、しぶとく生き延びろ」――しかし、そう教わってきたはずの少年オリーは、ほかの動物たちにも興味津々だ。ある日、オリーは鳥類ジャヴァンの雛に出会い、食物を手に入れる方法を教える。

ところが、ジャヴァンはたちまち島に大勢の仲間を呼び寄せ、プークーの食糧を独占してしまった。時は流れ、仲間に大きな危機をもたらしたオリーは、罪ほろぼしのためジャヴァンを追い払おうとする。ところが、思わぬことから”魔法の植物”の上に落下し、ジャヴァンの姿に変身してしまった。
ジャヴァンであるアイヴィーに助けられたオリーだったが、元の姿に戻ろうとした矢先、なんとアイヴィーも”魔法の植物”の力でプークーの姿になってしまう。ふたりはお互いを理解し、協力しながら、無事に元の姿に戻ることができるのか?

『塔の上のラプンツェル』との共通点
ほとんど天敵同士のようなプークーとジャヴァン、ふたつの種族の身体が入れ替わったとき、オリーとアイヴィーは文字通り”相手の世界”を知る。自分のよく知る環境を否応なしに飛び出し、未知の可能性と危険にさらされながら、新たな視点で世界を見つめ直すのだ。
監督のネイサン・グレノにとって、このテーマは前作『塔の上のラプンツェル』――18年間、生まれ育った塔から一度も外に出たことのなかった王女が、憧れていた外の世界へと踏み出していく物語だ――にも通じている。
『プークーと魔法の植物』が描くのは、外の世界へ飛び出すことだけでなく、他者の身体を通じて、外の世界と文化を経験することだ。たとえ同じ世界を生き、同じ風景を見ていても、他者の身体を通してみれば、世界はまったく違ったものに見える。
他者を想像するのではなく、まさしく”他者になる”ことによって分断を乗り越える。この表現は、ますます世界情勢が混乱し、立場の異なる他者とのコミュニケーションが困難になっている今この時代において、きわめて切実なものだろう。

『私がビーバーになる時』とのシンクロ
興味深いのは、ラセターとグレノ、そしてアニメシリーズ「ダックテイルズ」(2017年~2021年)を執筆した脚本家クリスチャン・マガリャエス&ロバート・スノーという”元・ディズニー組”の手がけた本作が、ディズニー&ピクサーの最新作『私がビーバーになる時』との間にも共通点をもっていることだ。
『私がビーバーになる時』では、動物を愛する大学生メイベルが、最新技術によって自らの意識を本物そっくりのロボットのビーバーに転送し、動物の世界へ入っていく。こちらも”他者の身体”で世界を、しかも自然界を経験する。動物界を通して現代社会を描く寓話であり、同時に人間社会と自然の関係を視野に収めた作品だ。
かたや、人間が登場しない『プークーと魔法の植物』は、同じ世界を生きているにもかかわらず、お互いを誤解し、深い溝によって隔てられている登場人物の相互理解に焦点を当てている。
それぞれ狙いは異なるが、”他者の身体”を借りることで分断と共生を描いた作品だ。ここで具体的な言及は避けるが、ストーリー展開やモチーフにさえ、いくつかのシンクロがみられることには驚くほかない。

“ディズニー/ピクサー的”は再現できるか?
ただし、あえて言えば、『プークーと魔法の植物』は一連のテーマをうまく掘り下げきれたとは言いがたい。
オーソドックスなストーリー、動物の擬人化、凸凹コンビのバディもの、ユーモアとエモーション、アクションのバランス、そして社会へのまなざし――ディズニーやピクサーの作品を思わせるところは大きいが、アニメーション表現の洗練ぶりに目を見張る一方、脚本の作り込みはやや粗く、もっと緻密でウェルメイドな映画に仕上げる余地はあったはずだ。
かつてディズニー&ピクサーを率いていたラセターは、不適切行為の告発を受けて両社を去ったのち、スカイダンス・アニメーションのトップとして業界に復帰した。しかし本作を観ると、ラセターの存在があってなお、言葉にしがたい”ディズニー/ピクサー的”なものを外部で再現することの難しさがわかる。スカイダンスの試みはまだ途上だ。

映画の内外にある境界
“他者の身体”を借りることで境界を超え、未知の世界を知る――。こうして考えると、本作の主題は、奇妙にも映画の舞台裏につながっているようにさえ見えてくるだろう。
ディズニー映画を支えた作り手が、スカイダンス・アニメーションとNetflixの手を借りて新たな映画を作る。Netflixは加入者を魅了できるファミリー向けアニメーション映画を、スカイダンスは作品を広く届けられるプラットフォームを求め、お互いを必要としている。

しかも、いまやスカイダンス(パラマウント・スカイダンス)はワーナーの買収を進めており、今後はNetflixの強力なライバルとなる。『プークーと魔法の植物』は未来の競争相手が作ったアニメーション映画であるばかりか、いずれNetflixとの契約が切れたあとは、スカイダンスの配信プラットフォームに引き取られる可能性さえあるのだ(マーベル原作のNetflixシリーズが、のちにディズニープラスへすべて移されたことを思い出しておこう)。
劇中ではオリーとアイヴィーが境界上を行き来するが、作品の外に視線を転じれば、そこではクリエイターと企業(スタジオ)、プラットフォームの境界線が、そして彼らの協力と競争の境界線が揺らいでいる。作品が意図したメッセージとは別のかたちで、この映画はストリーミング時代の創作と流通の複雑さを映し出してしまった。














