Netflix映画『チャイルド・オブ・マイン』独占配信中

画面に映っているものは、どこまでが真実で、どこからが演出なのか?

そんな「ドキュメンタリー」というジャンルをめぐる王道の問いかけを、思いきり覆す映画がNetflixに現れた。『チャイルド・オブ・マイン』は、ある女性に起きた出来事と、彼女が起こした事件を、幻惑的な語り口で描いた怪作だ。

監督は『83歳のやさしいスパイ』(2020年)などを手がけたチリ人のドキュメンタリー監督、マイテ・アルベルディ。ドキュメンタリーにはまだこんなストーリーテリングがあったのか、と新鮮な驚きを与えてくれる。

どうしても子どもが欲しかった

「子どもが大好きで、ずっと母親になりたかった。母親になるのが夢だった」

メキシコ人女性のエレオノール・アレハンドラ・マリン・メンドーサは、愛する夫のアルトゥロと2000年7月に結婚し、17歳で妊娠した。すべてが計画通りかと思われたが、アレハンドラは流産を経験する。

義母と同居していたアレハンドラは、子どもの誕生を期待され、夫の家族を喜ばせなければいけないというプレッシャーに苛まれていた。再びの妊娠後、夫はアレハンドラの身体を過剰なまでに気遣うが、再び流産する。不妊治療に取り組み、ついに叶った3度目の妊娠も流産に終わった。

その日、病院の受付でアレハンドラは若い妊婦のマイラに出会う。無責任なパートナーとの間に子どもを身ごもっていたマイラは、すでに子どもがいるから2人目は産めない、中絶を選択するつもりだとアレハンドラに告白した。

「子どもを譲る方がマシ」――そのマイラの言葉に、アレハンドラは「私がもらう」と口にした。流産の事実を隠して体重を増やし、服装を変え、病院に通っているかのごとく装う。夫のアルトゥロや義母、友人たち、実母でさえも、アレハンドラが妊娠していると信じていた。

そしてマイラの出産日、アレハンドラは運命の行動に出た。近所の住人を装ってマイラの病室に入ると、彼女の後押しを受けて、産まれたばかりの赤ん坊を病院から連れ出したのだ。

「再現ドラマ」と「記録映像」の融合

『チャイルド・オブ・マイン』は、アレハンドラの人生を彼女自身の目線から語る。自身が子どもを求めていたこと、社会や家族の重圧を感じていたこと、だんだん追いつめられていったこと、流産を隠しつづけたことへの罪悪感。

しかし本作が独特なのは、まずはアレハンドラ本人を画面に登場させながら、すぐに俳優が演じる「過去のアレハンドラ」にバトンタッチすること。アレハンドラ自身のインタビューに基づいて制作された脚本による、いわば「再現ドラマ」が始まる構造になっている。

すなわち、これは「アレハンドラの語っているストーリー」なのだ。このことを強調するように、映画の冒頭にはアレハンドラ役のオーディション風景が映し出される。再現されたアレハンドラの半生は、美術や衣裳、小道具に至るまでがポップで鮮やかなピンク色にあふれており、いかにもフィクショナルな質感だ。

その一方、アレハンドラの(再構築された)半生の合間には、現在のアレハンドラによる証言や、夫のアルトゥロらが当時撮影していた映像、さらに防犯カメラに映り込んでいたアレハンドラの姿などが挟み込まれる。「再現」と「記録」の両方が、アレハンドラのストーリーを雄弁に物語る仕掛けだ。

この映画のなかでは、あらかじめ「現実」と「虚構」が混じり合っている――しかし、それだけならまだ明瞭だろう。ピンク色を基調としたフィクショナルな空間に、歳を重ねたアレハンドラが姿を見せるとき、両者の関係はいよいよ混乱しはじめる。

これは現在のアレハンドラ本人なのか、もしかして「現在のアレハンドラ」にそっくりな俳優なのか? 赤ん坊の実母マイラや、アルトゥロといった複数の人物が証言者として登場するときも、その境目がぼやける。構図や照明、色彩まで丁寧に設計された画面が、これが実際の証言なのか、あるいはフィクションとして再構築された映像なのかを曖昧にするのだ。

実際の記録映像、俳優が演じている再現ドラマ、現在の本人たち。この3つの層を行き来しながら展開する映画を観ているうち、だんだんわからなくなっていく。いったい、どれがありのままの現実で、どれが演出されたものなのか?

「真実」の底が抜ける

「ドキュメンタリーは現実を映すものだ」とか、「ドキュメンタリーも演出された物語にすぎない」という議論は、この作品ではいまさら言うまでもない前提になっている。「社会や事件にはさまざまな視点がある」という『羅生門』的な発想も回避されている。

本人なのか、本人ではないのか。これが事件の真実なのか、それとも偏った視点による解釈にすぎないのか。映画がそうした曖昧さの隙間をくぐり抜けていくとき、やがて気づかされるのは、実はその曖昧さのなかにこそ、アレハンドラが生きた時間があったのではないかということだ。

妊娠したこと、流産したこと、子どもが欲しいこと、産めなかったこと、本当は妊娠していないけれど妊娠していると言い張ったこと。夫を愛していること、けれど周囲の重圧に耐えきれなくなっていたこと。喜びと罪悪感、葛藤。

ここに映っているものは「真実」ではないのかもしれない。しかしどうやら、こうしたひとつの〈現実〉はアレハンドラのなかに――それだけでなく、彼女とその周囲の人々が今も生きている世界のなかに、確かに存在しているらしい。映画のラスト、現実と物語の境界がいよいよ完全に溶け合うとき、おぼろげに見えてくるのはそのことだ。

ドキュメンタリーという形式や、「真実」という言葉の底が抜ける。映像メディアならではのストーリーテリングで、酔っ払ったようにふらふらと、前後不覚のまま、最後にはひとつの〈現実〉の風景にたどりつく。まぎれもなく稀有な映像体験、物語体験である。