2026年8月24日、東京・Zepp Haneda。MONAKI 1st Tour 2026「モナキやで☆しらんけど」の東京公演が行われました。大阪、名古屋と回ってきたツアーの3本目で、この日が千秋楽になるはずだった公演。アンコールのあとに、メンバーにもサプライズでZepp FukuokaとZepp Sapporoでの追加公演も発表されました。

そしてこの日、4人が客席に向けて口にしたのは、「日本武道館に立ちたい」という宣言でした。駅舎を設計していた一級建築士、戦隊ヒーローを経て一度この世界を離れた人、大阪で働いていた会社員、そして10年ほど舞台に立ってからミュージシャンに転じた人。それぞれのキャリアを一度きちんと積んだ4人が、そのあとで見つけた二度目の夢の話です。

キャパの10倍が申し込み、報道陣はリハーサル観覧

モナキの人気について、TikTokをはじめとしたSNSやリリースイベントではデビュー前よりずっと話題にされてきましたが、驚いたのは単独のライブにまでその勢いが及んでいること。ファンクラブ先行の段階でキャパシティに対して約10倍の申し込みがあり、報道陣が本番を撮影するスペースを確保できなくなったとのことで、開演前のリハーサルを撮ってほしい、との連絡がありました。デビューから4か月半のグループに対して、約2900人が入る会場に、その10倍以上が手を挙げたことになります。

モナキは、純烈のリーダー・酒井一圭さんがプロデュースする「セカンドチャンスオーディション」から生まれた4人組の歌謡コーラス・グループです。約1000人の応募者から選ばれた4人が、2025年11月26日、純烈の全国ツアーファイナル(LINE CUBE SHIBUYA)で2000人の前に初めて立ちました。メジャーデビューは2026年4月8日で、日本クラウンから「ほんまやで☆なんでやねん☆しらんけど」をリリースしています。作詞は酒井さん、作曲・編曲は岩崎貴文さん。この曲のSNS総再生回数は18億回を超えました。

初めての全国ツアーは、8月18日の大阪・Zepp Namba、19日の愛知・Zepp Nagoya、そしてこの日のZepp Hanedaの3公演です。

リハーサルを回していたのは、最年長のじんさんだった

リハーサルは15時にスタートし、曲ごとに止めて確認しながら進んでいきました。順番はセットリスト通りではありません。

仕切られていたのは、じんさんでした。純烈のカバー曲「キミとボク」を1曲通したあと、「ズレている人いたよ」と声をかけます。自分もフルで踊りながら、他の3人の動きを見ている。「1列が汚かった」「俺に合わせてみて」と直す場所を具体的に言い、口頭で終わらせずにカウントを取って合わせ直す。足元の縦バミリ(出演者の立ち位置を示す床の奥行き側の目印)の位置まで確認していました。

この日のラスト曲「ほんまやで☆なんでやねん☆しらんけど」では、イントロで自分が客席を煽ることと、そのためにマイクをしっかり入れてほしい旨を、じんさんが自分でスタッフに伝えていました。おヨネさんが『「朝の食パン〜」から確認したいんですけど』とスタッフに向かって言ったときには、すぐに「何か確認したいところあった?」と本人に聞きに行きます。伝言がスタッフを回って薄まる前に、発信源で確かめておく。じんさんはこの日、スタッフに向けても「お時間大丈夫ですか」歌のほうでは、おヨネさんとケンケンさんが2人で歌うCHAGE and ASKAのカバー曲「YAH YAH YAH」と声をかけるなど、多方面への気遣いが見られ、スムーズな進行に甚大なる寄与をしていました。

じんさんは1987年生まれのグループ最年長です。2011年のミュージカル『テニスの王子様』2ndシーズンで大石秀一郎を演じて注目され、以降『プリンス・オブ・ストライド THE LIVE STAGE』シリーズなど、2020年まで約10年にわたって舞台に立ち続けてきました。2014年の『烈車戦隊トッキュウジャー』ではトッキュウ2号も演じています。舞台は稽古の時間が限られています。そこで身につけた段取りが、そのままZeppに出ているのだろうと見られるテキパキとした発言は、大変目を惹くところがありました。

縦バミリにこだわる理由も、この会場なら分かります。筆者は大学生のときに「UNIDOL」というアイドルコピーダンスの全国大会で優勝していて、そのときの会場がZepp Hanedaでした。この会場の2階席は、ステージを斜め上から見下ろす角度になります。だから横のズレより、前後のズレのほうがはっきり見える。モナキは激しく踊るタイプのグループではなく、人数も少ないからこそ、列の揃い方が客席からの見え方をそのまま決めます。

1階のほうにも工夫がありました。この日はスタンディングに人がぎっしり入るので、リリースイベントでやってきたような客席に降りる演出は使えません。その代わりに、4人しかいないけれども、可能な限り横いっぱいまで一気に広がる場面や、バミリ(出演者の立ち位置を示す床の横幅の目印)を越えて客席側へ出ていく動きやしゃがむような動きが何度もありました。近さを、立ち位置の距離で作れないぶん、動きで作りにいっています。

歌のほうでは、おヨネさんとケンケンさんが2人で歌うCHAGE and ASKAのカバー曲「YAH YAH YAH」が面白かったです。冒頭、おヨネさんは普段より低いところに声を置いていて、その分、ケンケンさんのさらに磨かれた声の太さが前に出ます。おヨネさんは大学でアカペラサークル、高校ではコーラス部にいた方です。普段は高い声を生かされるおヨネさんが、このサビの「YAH YAH YAH」で一気に高い音へ突き抜けるという高低差がある曲で自分の声の幅を特に見せられていました。

前代未聞なバラエティ企画も

ツアーには企画コーナーが2本ありました。ひとつは、たらいが頭に落ちる前にロープを止められるかを競うもの。リハーサルで代表して挑戦したのはケンケンさんでしたが、引いてもたらいが落ちず、宙に浮いたまま止まってしまいました。スタッフが他のメンバーに向けても「もう少しいいところで止められるように練習しときますか」と提案すると、おヨネさんが小さな声で「大丈夫です」と答えます。練習では落とされたくない、というお顔でした。

ケンケンさんは、この企画のリハーサルになると発言が増え、ムードメーカーさを発揮していきます。また、特にケンケンさんは、リハーサルから曲中のメンバーとの絡みも積極的に披露しておりメンバーとの仲の良さを感じられる空間でした。ケンケンさんは2014年、高校在学中の「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」でファイナリストに残って芸能界に入り、『動物戦隊ジュウオウジャー』でタスクを演じ、2018年に映画で初主演を務めたあと、一度この世界を離れて大阪の焼き肉店で働いていた時期があります。

もうひとつの企画には、太鼓の達人のゲーム機とキャラクターのどんちゃんが持ち込まれていました。おヨネさんが段位道場で九段を持ち、鬼難易度のフルコンボが760曲に及ぶ、「太鼓の達人」の熱烈なファンだからこそ、この企画も実現したものと思われます。7月に発表されたコラボレーション企画「モナキの達人」にとどまらず、ライブ会場にゲームが持ち込まれるのは斬新です。そしてそのどんちゃんを、サカイJr.さんが猫を撫でるように終始触られていたのも印象的でした。

「死ぬまでモナキ4人で頑張っていきたい」

本番も拝見させていただき、本編の終盤、4人が順番に挨拶をしました。ここが、この日いちばん印象的だったところです。

サカイJr.さんは、このツアーでモナカマ(ファンの呼び名)に3つのことを教わった、と切り出しました。1つ目は「夢というのが、誰と一緒に見るかがすごく大事だということ」。夢の解像度も、夢に対するモチベーションも、スピード感も、誰と一緒に見るかで変わってくるのを実感した、と続けます。

2つ目は、夢を叶えるまでの道のりも大事だということ。「どちらかがこういう景色を見たいよねっていうふうに言った時に、よし見よう、じゃあみんなで一緒にその景色を見に行こうと言えるような、そういう関係性があるからこそ」、その道中が愛のある素敵な時間になる、と話しました。

3つ目が、夢の見方を長いあいだ忘れていた、という話です。「20代になると、目の前のやらなきゃいけないことですとか、あとは個人の責任がすごく重くなってくるので、夢をどういう風に見るのかを忘れてしまっていた」。それをモナキになって思い出した、と。最後は「皆様これから一緒に素敵な夢を見ていただければと思います」で締めています。

ケンケンさんは、芸能の仕事には辛いこともあると前置きしたうえで、いちばん大事なのは自分たち自身が楽しめているかどうかだ、と話しました。そして「死ぬまでモナキ4人で頑張っていきたいなって心から思ってます」。そのすぐあとに出てきた言葉が、「俺、今楽しくてしゃーないんだわ」でした。7月に30歳を迎えたときの囲み取材でも、モナキ誰一人欠けることなく40代に突入したい、と話しています。囲み取材でもステージの上でも、同じことを言い続けている人です。

おヨネさんは、うまく言葉にできるか分からない、と断ってから話し始めました。「私はその2年前までは会社員として大阪でこう働いていて」。そこからオーディションを受けて、受かった。「私本当になんか一人では何もできない人間なんです」。音楽という夢があったとしても、曲を作ったその先のミュージックビデオも、それを届けるための作業も、一人ではできない。だから今こうして環境を用意してもらえていることが「本当に奇跡的なことだな」と、名古屋公演のあとに事務所の人たちと食事をしていて、ふと思ったのだそうです。

じんさんの挨拶は、自分の来歴を客席に開くものでした。「この夢のZeppに立てるまでに、本当に僕は長い間回り道だったり遠回りをしてきたなとも思う」。けれど、その途上でしか見えなかった景色がある。人の愛も、傷ついたことも、挫折した人にしか見えない景色もある。「間違いなくそういったものすべてが自分をここまで引っ張ってきたんだなって思ってます」。途中で病気もして、乗り越えるために体に傷痕が残った。今はその痕を見るたびに、まだまだ頑張れるんじゃないかと思えるのだそうです。「それって自分が必死にこう生きようと戦ってきた証だったりして、今ではちょっと誇りに思ったりしています」。

そして、こう続けました。「必要なことが必要な時にしか起きないんだなと思っているので、失敗って何一つないんだなと思います」。ちゃんと失敗できるということは、その人が行動しているということだから、半分はもう成功なのかな、と。「格好悪くてもいいし、はみ出したっていいので、皆さん夢を諦めないでください」。自分はそういうマイノリティにいつまでも寄り添っていたいし、その人のために歌を作っていたい、とも話しました。

社会人になってから見つけた、二度目の夢

メディア向けに配られた丁寧なQ&Aシートがありました。そこにも書かれていた4人の経歴を並べると、この日の挨拶がそのままつながります。

サカイJr.さんは一級建築士です。千葉大学の工学部大学院を首席で卒業し、2013年から2021年まで大手鉄道会社で駅舎の設計に携わり、鉄道建築の分野で受賞歴を持ちます。2022年から2024年は東京建物で街の大規模再開発に関わっていました。大学院では、都市開発の提案をするときは将来の人口の推移やその都市に住む人の需要を掴んで、長く求められる施設を作ることが大事だと教わったそうです。

公演のたびに公式Xへ投稿している長文が、その街の歴史や都市計画を自分で調べたものであることと、この経歴はまっすぐつながります。


囲み取材では、自分はお酒をほとんど飲まないので、他の3人が賑やかにやっている時間にあの長文を書いている、という話も出ました。3つ数えてから中身に入る挨拶の仕方も、サカイJr.さんの職業歴そのものに感じました。芸能人としての目標を聞かれて答えているのが、自分を見て世の中の会社員が会社以外の挑戦をしたくなる、そういう存在になりたい、ということでした。

おヨネさんは大阪府寝屋川市の出身で、会社員として働きながら、2023年にカラオケ店でこのオーディションを知って応募しました。高校生の頃に受けた事務所のオーディションは全部落ちていたそうです。会社員としても働ける自分に気づいてお金を貯め、準備ができたと思ったタイミングがちょうどオーディションと重なった。「2年前までは会社員として大阪で働いていて」という挨拶も本番で登場しました。今いちばん欲しいものを聞かれて、おヨネさんは「時間」と答えています。練習に費やす時間を増やしたい。作曲のスキルも磨きたい。語学の勉強も、資格の取得もしたい。太鼓の達人も十段まで伸ばしたい。どれもパフォーマンスを磨きたいことにつながっていて、歌手としての貪欲さを感じます。

ケンケンさんは福岡市の出身で、一度この世界を離れて戻ってきています。戻ると決めた時点で厳しさを引き受けるつもりだった、と語ってきた人が、いま「楽しくてしゃーない」と言っている。好きな言葉は「ピンチはチャンス」。不得意なことを聞かれると「頭で考えることです」と答え、考えるより先に言葉が出るところが、本番でもそのまま人柄になっていました。

じんさんは、10年ほど舞台に立ち続けたあと俳優からミュージシャンへ転じ、組んでいたユニットのボーカルが失踪して騒ぎになり、次のユニットを立ち上げた直後にコロナ禍が来る、という道を通ってきました。挨拶で話された「回り道」「遠回り」という言葉は、その全部を指していると思います。3歳でエレクトーンを始め、小学生の頃には作曲をしていた方です。喘息とアトピーで体が弱く、人見知りで引っ込み思案の、自信がない子どもだったと自分で振り返っています。そんなじんさんが芸能人としての目標に挙げているのが、誰かの「明日が楽しみになる理由」になりたい、ということ。この日ステージで話した、マイノリティにいつまでも寄り添っていたいという言葉と、同じことを言っています。

デビューから4か月半でZeppを3本回りきったスピードは、勢いという言葉で説明されがちです。ただ、舞台の段取り、建築のプレゼン、アカペラで鍛えた声、一度離れて戻ってきた時間。新人グループの立ち上げでいちばん時間がかかる部分を、それぞれが前の仕事で積んだものが肩代わりしているような面がたくさん見られ、それこそモナキの魅力であると感じました。

「純烈さんの後を追って、日本武道館に立ちたい」

本編の最後に、宣言がありました。「純烈さんの後を追って日本武道館に立ちたいです」。代表して口にした言葉でしたが、これは僕たち全員の総意だ、と続きます。純烈の日本武道館公演を客席から観たときは、自分たちが立てるとは1ミリも思っていなかった。「でもこうやってZeppの景色を見させてもらったら、なんか立てるんじゃないかなっていう気が少ししてきました」。

アンコールのあと、酒井一圭さんがステージに登場しました。発表されたのは3つです。この日のZepp Hanedaの模様を収録したモナキ初のライブBlu-rayを11月25日に発売すること。ツアー追加公演として、11月18日に福岡・Zepp Fukuoka、11月27日に北海道・Zepp Sapporoを行うこと。そして12月23日に東京・Zepp DiverCity(TOKYO)、12月25日に大阪・Zepp Osaka Baysideで『クリスマスやで☆しらんけど』を開催すること。つまりこの日は、千秋楽のまま終わらなかったことになります。

酒井さんは、追加公演が決まった理由をはっきり言葉にしています。この3公演が成功しなかったら、福岡と北海道は押さえられなかった。大阪も名古屋も東京もモナキが頑張って、モナカマも頑張ってくれたから、福岡と北海道につながった、と。純烈がスーパー銭湯を回っていた頃、その前のキャバレーの頃、さらにその前のショッピングセンターで客がまったくいなかった頃の話にも触れたうえで、後輩グループが純烈の呼ばれないような番組に呼ばれていることが嬉しい、と話していました。

そのうえで、もうひとつ目標を掲げます。2027年のうちに大阪城ホールを押さえて、そこで純烈とモナキで対バンをすること。しかもその純烈は、今オーディションを受けている人たちが入った純烈である、と。そして2028年に日本武道館。純烈が日本武道館の最後にステージ下へ沈んでいくとき、2028年あたりにまたここで会いましょう、と言い残していたのだそうです。当時は純烈の単独公演として思い描いていたものを、一緒に行こう、と言い換えた形になります。

モナキという名前は「名もなき」から来ています。ただ、4人が名もなかったわけではありません。名前がつく前から、一人ずつの人生がちゃんとありました。社会人になってから見つけた二度目の夢は、一度目を捨てて手に入れたものではありません。じんさんの言葉を借りれば、必要なことは必要な時にしか起きない。だとすればこの4人が同じステージに立つために必要だったのは、舞台の稽古場も、駅の図面も、カラオケ喫茶のマイクも、大阪の焼き肉店の日々も、その全部だったということになります。Zepp Hanedaで日本武道館の名前を出せたのは、4人が一度目に選んだ道を、あゆみ切ってきたからだろうと感じました。